昭和49年09月18日 朝の御理解
御神訓 一、「真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ。」
信心の道と言う事を「真心の道」と書いてあります。ですから神信心をするという信心と、その信心はお道の信心は、どこまでも「真心」でさせて貰う信心という、両方の意味があると思うです。信心命。ですからどうしても、お道の信心をさせて貰うなら、真心にならせてもらわなければならん。同時に真心の道を迷わず失わず末の末までも教え伝えていくと。只今の秋永先生が、昨日久留米地区で、筑水の信徒会主催の下に、全国信徒会の会長をしておられる、大阪の扇町教会の信徒総代さん。
その方のお話を頂くことになって、お迎えに行く、今もここのどっか山水荘かなんかへ泊まっておられるそうですから。そこに迎えに行って、飛行機で帰られるのを送らんならん。もう昨日は何回も何回も、行たり来たりしておられましたが。昨日はまた夜須の先生が、是非合楽に寄りたいと言われる。それをいっぺん送って来とる。そしておらんごとなったと思ったらまた今度は。
今のその信徒会長さんを、久留米教会に迎えに行って、山水荘まで行って、そこで又ちょっと「お食事ども上げなければいけないから」と言うので、お付き合いをして、そしてまた夕べは遅う帰ってくる。そして帰ってから、また今の迎えに行っておるわけなんです。昨日もあちらであの人が、こちらの信徒会の総務を、秋永先生しておられますから、忙しい事で司会を承って「おかげを頂いた」と言っておりましたが。その信徒会長さんの名前を、ちょっと私は失念しましたけど。
こっから沢山おかげを頂かれました。で皆さんからひとつお話を聞こうと思いよった。そしたらいつの間にか帰ってしまっておられますもんです、昨日。帰ってから文男先生から断片的に、また秋永先生からも断片的でありますけれども、聞かせて頂いたそのお話の内容というものが、全く合楽の生き方を、そのまま訳は分からんなりに、頂き抜いてござるという感じだったというのです。合楽で私自身も、合楽の信心が、今日の段々繁盛のおかげを頂いてきております。
元ともなる修行というか生き方というものは、私も訳が分からんなりにしたんです、本当は様々な辛い事もありゃ、苦しい事もある。様々な火の行水の行をさせてもろうた。それでも尚且つ足らんから、とにかく神様が私に求めなさるというか、どう言う様な事が起きてきてもです、それをひとつ本気で私の上に起きてくる一切の問題を、合掌して受けます、頂きますというのが私の信心だった。
そりゃ只おかげば頂かんならんからの修行であったんです。それが段々「成り行きを大切にする」と言う事になって参りましたり、最後にはその事柄が、神様の御働きであることが分かってきた。だから最近ではその事柄に対して「御」の字を付けて「御事柄」として、それを受けていくという生き方。しかもそれがです愈々真の道だと言う事が分かってきた。今日の御理解の「真心の道」というのは、そう言う事なんです。
私は真心真心とこう言うですけれども、誠心誠意と申しますけれどもね。言うならば人の事とか、そう言う事ではなくてね、天地の親神様が一人一人の氏子可愛いという願いがかけられておる訳です。一人一人の人間氏子に「幸せになってくれよ」という願いをかけておられるわけです。ですから様々におかげの受け物を作らせて下さろうとする働きが始まるわけです。その中にです大自然の働きの中に、高芝秀雄なら高芝秀雄を、久富繁雄なら久富繁雄に対して様々な問題が、次から次と起きてくる。
問題と言う事は決して悪いと言う意味ではないのですよ。またその中には痛い痒いことから、嬉しいことから嬉しくないことから。昨日の朝の御理解じゃないけれども、ただ春秋の都合の良い、自分に都合の良い、気候の良い時だけではない。夏もあれば冬もある。場合には、雨嵐と言った様な時もあるのだけれども。それを受けていくというのが、私は、神様の真心を真心で受けたことだと思うです。神様は憎いから雨を降らしなさるのじゃない。神様は憎いから風を吹かしなさるのじゃない。
そこんとこの道理を分からんなりに、ただ受けてきたと言う事です、始めの間私は。その信徒会長と言われる方もです、これはお母さんの信心が素晴らしかったという話ですね。お母さんがその生き方を身に付けられた。そしてご主人が亡くなられて、それからその子供さんを連れて再縁されて、それから信心が始められて、それこそ何回も夜逃げ同様の事を思い立たれたことも何回もあったけれども、その都度にです同じような働きがあっておったと言う事です。
私はそこ辺のとこを聞く時に、何かたまらんような感動を覚えました。人間が本当にぎりぎりの苦しい時にでもです、一心におすがりをしてから起きてくる問題が、いかにそれが神愛であるかという印をです、見せて下さるんです。愈々いかんからと言うて、荷造りして夜逃げをしようと思う時に、いつもは来なさらん、教会の総代さんが必ず見えたと言う事ですね。私その話を聞きよってからですね。
神様の働きっていうのはそれなんです。ですからどんな難儀であっても、苦しい時であっても、それが受け良いように、神様は演出しておって下さると言う事です。だからこれは、てもただ事じゃないという思いがあるから、またとにかく堪らんのだけれども、そこを辛抱し抜いて、何十年間現在では、何十億あるやら分からない。会社も四つか幾つかあるでしょう。沢山の。
そして素晴らしいことはね、「会社が大きくなれば大きくなるだけ、従業員も一緒に、共に大きゅうならなきゃならん」という方針だそうですね。これでなからなきゃおかげ頂かんですよ皆さん。従業員ば絞るだけ絞ってですね、と言った様な事じゃ絶対おかげにならんです。だから今は、どんなに苦しかってもです、家の主人はそういう人柄だと言う事を分かって貰える信心をせにゃいかんです。
今はきついけれども、うちの主人は大きくなりゃ必ず自分達の上にも、めんどう見て下さる人だと言う事が分かるから、どんな苦しいところでも、従業員みんな団結してやる訳です。ただ自分だけが良かと言う事じゃ、これは絶対いけんです。ほんとにお店が大きゅうなったら、あなた方も大きくなる時だと。例えば合楽教会が大きくなる時には、皆さんも大きゅうならなきゃいけない。
合楽教会が極楽にある時には、皆さんも極楽でなからなければならない。それが最近言われておる「極楽の確認」というのがそれなんです。第一合楽におかげを頂くようになったら薬箱がなくなった。貧乏がなくなった。言うなら病気がなくなったと言う様な、人間の最大の悩み苦しみと言った様な所から、抜け出ることのできれるおかげを、お互い頂いておると言う事実を確認して、そこをおかげをおかげと悟らせてもろうての信心の稽古でなからにゃならん。いやが上にも楽しなっていくと言う事。
そして今日何十億あるか分からんと言う様な財産を築かれて、今はそうして教団の全国の信徒会の会長までなさると言う様な御用ができておられる。それが全くこう言う様な嫌な問題は嫌だと言わずに、それを皆んな受けて受けて受けきっておられると言う事です。その受けきって行く心が、私は真心であり同時に信心だと思うです。あの人に親切にした。これは自分の真心で親切をした。そういう小さいもんじゃないです。真心とは言うなら信心です。それは天地が私どもに求めてくださる所の願い。
それに応えさせて貰う心が「真心」である。同時にそれが信心であると言う事になります。ですからいやが上にも、心が大きくなってくる。どういう難儀な場合であっても、その難関を突破するだけの力、働きを自分の心に頂く事が出来る。この様にも間違いのない働きの中にあるんだと言う事が分かる。そこに親子二代の信心辛抱ができられると言う事になったのでございましょう。それで現在のおかげであると同時に、ほんとの御用が出来ておられる。親から子に伝えられた。
恐らくはそういう生き方の方ですから、これが末の末までも「信心しなさい。信心すりゃおかげ頂くばい。もう病気の時でん何でんお願いすりゃすぐ治るばい」と言った様な信心ではいけん。信心の道というのは、天地の親神様が私どもに求めて下さる事を、それを合掌して受ける心が「真心」だと教えていかなきゃいけんのです。それには私自身が、それを受けておらなければ、伝えられませんもんね。信心しよるけん雨は降らんばい。風は吹かんばいということじゃ決してないよ。
雨も降りゃ風も吹くけれども、それを「神様有り難うございます」と言うて、受けて行くのが真心ばい。これが金光様のご信心ばいと言う事を、教え伝えていかなきゃいけん。そこにはね、必ず末広がりのおかげが約束されます。その中にですとにかく自分だけがおかげを頂こうとは思わん。従業員の皆んなが私が大きくなる時は、皆さんも大きくなる時だと言う様な、美しい心というものが、自ずと出来て来る訳です。だからそう言う様な素晴らしい大きな働きにまでなってくる。
「楽」ということ。言わば「極楽」と言う事。極楽と言う事は、心が大きゅうならなければ、極楽ではありません。それはどう言う事かというとです。皆さんがです親先生は極楽極楽と言いなさるばってん、いっちょん極楽じゃなか。お金もがつがつ。病気もしておる。家庭も時々には争いが起こる様な事もある。してみるとそれは極楽じゃないじゃないかと。だからそういう頂き方ではなくてです。
成程病気をしとるかもしれないけれども、それが病気じゃない、神様のおかげを下さろうとする働き。私の糖尿病というのが、糖尿病という名の神様の御都合だと。神様の神愛の現れだと頂いておる時に、もう病気がないじゃないの。そのことに対してお礼を言われる心が生まれてくるでしょう。貧乏しておるからというてです。いわゆる銀行にお金はないにしてもです。ただ自分の徳なり。自分の徳なりのその日暮らしではあるけれども、一日でも食べなかったと言う様な事はない。
やっぱりおかげを頂いておると言う事です。成程争いがない事はない。けれどもおかげを頂いて、一家中が信心をしておるから。そんなら明日親先生にお伺いしようと言う事になって、お伺いの所にはそれで問題が解決するのですから。先ずそういう「窮屈な極楽」と言うたらどうでしょうか。だから極楽には勿論限りがありません。百円のその日暮らしから、千円のその日暮らしと言った様なです。ほんとに薬箱がなくなってしまうほどしのおかげに、段々育っていかなければならんためにもです。
現在おかげを頂いておると言う事実を、私どもは確認して、おかげを頂いておる。そこを、おかげと頂けれる心が、私は「楽な心」と。そこから大きな心が生まれてくる。末の末までも教え、そして伝えていくと言う事はです。そういう信心だと思うです。信心と言う事を真の心「真心」と替えてしんじんと読ませておられます。「真心」とは神様が求めて下さる、その修行をこちらが合掌して受ける心が「真心」だと言う事を、今日は聞いて頂きました。同時にそれが信心だと言う事を聞いて頂いた。
そういう信心をさせて頂く限り、それは分からんなりにです。神様の神愛の現れである、これが真の信心だと言う事が分からんなりにです。私がおかげを頂いて、その後においてそれが分かったように、その信徒会長さんも、それはこれが金光教の信心の真髄であり、真の信心であり、それが本当の信心だから、こげな本当のおかげを頂いたとは、分かっておられないのかもしれません。
ただどんな事があっても、黙って受けていくというだけの事かも知れません。けれどもそれこそが「真心の信心」言うならば、真の信心。真の信心をさせて貰うから、真のおかげが現われてくる。そういうおかげを自分にも、ひとつ体験してそういう信心を、自分がさせて頂いて降ることも照ることも、一切が神様のおかげであるという頂き方を、先ず自分の信心の根本の所にです。
頂き込んでそれを伝えて行くと言う事になれば、それが徳にもなりましょう。末の末までも教え伝える事が出来ると思うです。どうぞ自分一代の信心じゃいけません。末の末までもねそれが伝わって行く様な信心を頂きたい。それにはいわゆる真心の信心をさせて貰わなきゃいけない。それが小さい真心ではいけん。大きな言うならば絶対の真心。それは天地が私どもに求められる修行を、それを合掌して受ける心が真心だというふうに、今日は聞いて頂きましたね。
どうぞ。